書を捨てよ、街に出よう

書を捨てよ、街に出よう と寺山修司は言いました。
誰よりも本の虫な彼が何故そういったのか。
わたしにわかるかしら

絵本を読んだり、児童文学に触れているとそのファンタジーの中には基礎知識が無いと読めないものがずいぶんある。
辞書や図鑑でわかることと、本物を見て触れることの間にはものすごい知識と経験の量の差があるわけで、
自ずと、感動の量も違うように思えてならない。

ケーターサイズで写真を撮るのと5Mで写真を撮るのでは出来上がりの写真(紙に焼いたものとか)の情報量のきめの粗さにおおきな違いが有るわけで。

港区に自然教育園という国の施設がある。江戸時代にはお屋敷と立派な庭園だったらしいのだが、今は故意になすがままの庭園となり、森がうっそうとした緑に覆われている。(一部秩序立てて手入れされているが)

ここへ子どもたちを大勢連れて行くと、色んな発見をしてくれる。個人個人で連れて行くよりも、たくさんの子どもがたくさんの目で見つけて口々に発見したことをおしゃべりしながら行くということはものすごい相乗効果が有り学びがふかまるようだ。
たとえば、鳥が飛ぶのを見ても、「でかいな」とか、「ちいちゃいよ、あれぐらい」とか、「あーびっくりした」だの「こわい」だの感想を言う子らもいれば、「鳥のお母さんかなあ」「こどもじゃないの?」「あかちゃんはとべないよ」、「えさを探しに来たのかな?」「おなかすいたもんねー」「とりだってすくよねー」「そっか」などと言う子どもたちも居る訳だ。

そういう体験をして「とりかえっこ」を読むとか、白鳥の王子を読むとか、幸福の王子を読むとものすごく世界が広がることはおわかり頂けると思う。

例えば三びきのやぎのがらがらどんをただ読むのでおわるのと、親子や友達と劇をするのでは、あのちいさいやぎのがらがらどんが、ちょっとまって、もうすぐおおきなやぎのがらがらどんがくるから。と言い訳をして橋を渡るドキドキの実感は違う。(それにこの遊びは、1歳児でも2歳児でもおとなでもハマる。)


あっちゃこっちゃはなしがそれていますか?ごめんなさい。

で、私が言いたいのは、兎に角大慌てで森の中や田舎や山や海や照りつける日、あるいは雨の中をずんずん歩いて欲しい。目的も無く、ずんずん歩いて色んなものを見て置くことで、あなたの文学の世界が広がるのである。

それとですね、森の中で読み聞かせをするとものすごいことが起きます。ものすごい深い感動を森が与えてくれますよ。
わたしはそのとき、いくつかのみじかいかみしばいと、絵本を読みました。
暗い森から見上げる青空と雲の中に、絵本の感動を深めるものが備わっていたと思います。
その時に読んだものの話はまた今度